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好きですけど、なにか?

常になにかのヲタでいたい。今はジャニヲタです。

Defiledを観てきた(4/25)

※展開に触れる部分もあるため、舞台をご覧になっていない方はご注意ください。

 

 

 

 

終始ハリーは駄々をこねる子どもに見えた。自分の欲求を押し通そうとする様も、時折甘えを欲する様も。
それに対してディッキーは自分の息子に接するかのように優しく彼の話を聞き、時々大声を上げてハリーに厳しくあたった。序盤はそれに抗っていたハリーだったけど、終盤は少しずつディッキーに頼りたい気持ちが見え隠れしていたように見えた。

 

子どもっぽいハリー像は戸塚さんだからこそ創ることができたものだと思う。少なくともわたしにはハリーを演じる戸塚さんの容姿、声、仕草、それぞれがどこか成熟した大人には見えなかった。設定の人物像や初演で大沢たかおさんが演じていることを考えると、ハリーのイメージからは少々乖離がある。


でも子どもみたいだ、と捉えることでスッと理解出来る部分もあった。子どもの頃って何でもないものを宝物として取っておく、みたいなことがよくある。そこら辺に転がってるただの石ころや野花、セミやヘビの抜け殻などなど。誰しも「何でこれを大切にしていたんだろう?」って思うことが一度はあったと思う。周りの大人にとってハリーの主張はそんな風に見えたんじゃないかって。ハリーの周りの大人たちは当人にとってなぜそれが大切なものになったのかというプロセスを理解せず、無闇に引き離そうとした結果、ハリーは図書館に立て籠もることを選んだ。幸いにもそのプロセスを理解しようと歩み寄ってくれたのがディッキーだった。

 

結局のところハリーは誰かに甘えたかったんだと思う。ハリーに関わってきた女性として母、姉、メリンダが挙げられるけど、彼が彼女たちに感情を寄せる一方で、彼女たちが彼に与えたものって何だったんだろう。わたしにはそれを感じ取ることができなかった。母性的な優しさを十分に受けられなかったハリーにとって、ディッキーは厳しくも自分を受け入れてくれる最後の砦だったんだろう。ここでの彼の甘えには子ども的な構ってほしい欲というより、どこか壊れているそんな自分を愛してほしい、というような承認欲求に近いものがある。それは終盤で満たされてハッピーエンドで終わるかと思いきや、そうはいかないのが残酷。後味は決して良いものじゃなかった。

 

数日経った今でも戸塚さんの眼が忘れられない。パンフレットに掲載されている稽古中の眼つきと、舞台上の眼つきが全然違っていた。正直なところDefiledを見るまで戸塚さんの芝居に苦手意識があったけど、それを超えて「凄い!」と思わせてくれるものを見てしまった気がする。ハリーという追い込まれた状態にいる役柄の力が相乗されていたとしても、あの眼はそう易々と出せるものではない気がする。そんな眼を戸塚さんが持っていたことにゾクッとした。

 

Defiledは娯楽性は皆無だし、軽い足取りで劇場を後に出来る作品じゃない。重いし後味は悪い。でも。人間同士エネルギーのぶつかり合う瞬間を詰め込んだ作品だった。ハリーは最期の最期でエネルギーを思いっきりぶつけることが出来て幸せだったのかもしれない。